2022年03月02日
頭の中にあったものをついったに投下したので、これもいちおうメモ程度にまとめておくぅ!
※すべて創作上のストーリー設定なのでフィクションネタ入り混じりです。ご注意ください。
はつみが介入したあの世界線は最終的にパラレルワールドとして完全に派生し(※最下部にて注釈※)、そのまま未来へと向かって我々の知る歴史とは違う歴史を刻み始めるという風に解釈付けてるんだけど、その世界線での今現代くらいの頃にははつみが5000円札の人になるんかなぁと妄想している(笑)
創作のはなし。
チャールズのジャパン・パンチ(風刺漫画。ポンチ絵と呼ばれる人気絵画の元手になったもの)関連で「抑圧された女神」のネタをつくり作品中にも広く浸透させていくのだけど(サトウが執筆し各大名や西郷ら英傑達へ大きな波紋を及ぼす一石となった英国策論の様に、知る人ぞ知るという感じで)この「抑圧された女神」は当時既に西洋で既に注目されていたいわゆる今で言うSDGs(女性の社会進出のところ)と、いわゆる『未開国』であり身分によるゴリゴリの世襲制によって政が行われる日本の様子を風刺にしたキャラクターです(キャラクターそのものはもちろん創作です。チャールズが作ったジャパンパンチのキャラクターというのはMrパンチなどがあります)。
(ちなみに英国人の価値観で女神なんて存在するのかな?と調べたのだけど、ブリタニアという英国を神格化した女神が存在するらしいので、まぁ女神という概念はあるんだなという事で『抑圧された女神』というのが生まれましたw(安直))
文久元年の横濱ではつみと出会った画家のチャールズ・ワーグマンは、最初『随分麗しい日本人男性だな』という軽い気持ちで声をかけました(外国人居留地内では外国人の安全が保障されると同時に文化も尊重され、誰かと気さくに知り会うなんて事もあった様です。でもそれが幕府にバレると横濱の外にある家屋や親戚類は強制的に引っ越しさせられるとか、外国人からは理解できない陰湿な対応もあった様ですが…)チャールズがはつみにカタコトの日本語挨拶で話しかけてすぐ、彼(はつみ)がジェスチャーを交えつつも割としっかりめに英語を話せる事を知り、当然ながらその事に驚きます。英語を操る日本人がこの時長崎を含め何人いたかは分かりませんが、少なくとも横濱に限れば右手で数える程度もいなかったのではないかと思われます。更に、異文化に対し未来志向な思考力や海外の機械や歴史などについてもそれなりの知識を持っている事、他の日本人の様に外国人を極端に珍しがる或いは敵意を持つといった事が無い、本当に日本人なのか?という刺激を受けるんですね。そしてこの時、はつみが一年前に長崎で出会っていたアレクサンダー・シーボルト(16歳。英国公使館付き通訳官になっている)とも再会した事で、チャールズははつみが女性である事を知った上で以後の親交が発生します。 チャールズはコラムニストとして母国英国だけでなく上海でも活動してきた上に、3,4か国語くらい習得しているエリート画家。はつみの才能が今のこの開国したばかりの日本で持て余されている事と男装をしなければ馬や船に成る事も出来ないどころかロクに出歩く事もできないという理由も兼ねて、『抑圧された女神』を生み出したという流れ。
このジャパンパンチは翌年(文久2年6月)頃に横濱で初版が発行され、人気冊子となります。時間を置いて長崎や函館、ゆくゆくは本国英国などにも分布され、丁度上海から帰って来た高杉晋作も長崎でこのジャパン・パンチを手にして『抑圧された女神』を目にし、「僕の知り合いに似た様なおなごがいる」とはつみに想いをはせるなど…(妄想)
ちなみに元治元年6月に四カ国艦隊の長州報復戦争に慌てて帰国した伊藤俊輔や井上聞多も英国でジャパン・パンチを手にした事で「これ桜川くんの事じゃないか?(文久元年江戸で高杉らと一緒に会っている)」とかなっていて、サトウと共に軍艦に乗って姫島(瀬戸内海の島)まで送られる4日間の船旅の中でジャパン・パンチを通してモデルになった女性の話になり、それがはつみだった!知ってるよ!っていう共通の認識が芽生えるに至る…というネタもあったりします。(ネタが多すぎて脱線しがちw)
そのはつみは、色々と紆余曲折あった後に慶応2年の秋から小松を通してグラバー商会(マセソン商会)のインターンとして活動し始めます。(色々あるんですが端折りますw)
ここで世界との貿易を通し、様々な外国文化や国際法、日本人の殆どが習得していない西洋ビジネス・社交のマナーに至るまで多岐に学びます。(華やかな鹿鳴館の頃も外国人の目線で見ると…というあれ)
ちなみにグラバーは「君がアクトレスを目指すなら私がパトロンになるよ」とかいうw
この時グラバー商会のインターンになったのははつみと寅之進、そして陸奥の3人。(寅之進はいわずもがな、陸奥もはつみの影響が強くその言動に歴史改変が起こっている)
『抑圧された女神』の風刺の意味もよく分かっているし、語学はもとより西洋の考え方、文化についても更によく学んだ。
そんな陸奥が慶応3年末、陸奥がサトウの所へやってきて新政府を西洋に認めさせる具体的な方法について話をし、それをまとめて岩倉へ提出した事がきっかけで七局(外国事務局)に採用されるけど(これは史実。あの頃、薩長の派閥もものともせず単独でこれを成す陸奥は本当に優秀です…!この動きがあったお蔭で政府は諸外国に対し局外中立を要請する事ができ、数か月後には無事に公式な信任状奉呈を受ける事ができました。)この時、陸奥が新政府要人に対してはつみの才を推しまくります。
この時の陸奥ははつみと切磋琢磨しまくったお蔭でかなり外国文化に馴染み英語の習得も進んでいました。彼女の指南があったから、自分は少なくとも世界の片隅を見渡せる視野と術(語学力)を持てている。真に才を活かすというのであれば彼女こそ新時代には必要な人材だと、唾を飛ばしながら激論してくれるわけです(笑)
(史実ではこの頃の陸奥はまだ、当時帝や要人の通訳を務めた伊藤や五代らほど英語習得は進んでいなかった様です。亀山社中・海援隊でも勉強はしていたし白峰くんと一緒に長崎の何礼之にも弟子入りして、その才能を名指しされる程期待されていた様ですが。陸奥が英語『マスター』になったのは明治での獄中生活の中で、という見解もある様です。何かの翻訳本を出したりしてましたね。そこうろ覚えw)
(ちなみに陸奥は外国局・外国官になったばかりの明治元年4月頃、相変わらず身分制で役に立たない傀儡が政府の上官にいる事を批判して辞表を叩き付け、更にそんな現状を『自分を卑下する事で』遠回しに非難する論文を当時の新聞にぶッ込んでいます・笑←そんな陸奥を拾ってくれたのが何を隠そう小松で、当時局外中立の影響で面倒な事になっていたストーンウォール号の資金集めの実績を以て会計官になるのですが、ここでも由利公正と意見が合わず唾飛ばしまくって激論する事数回、辞めてやった!との事w←さらにこれを拾ってくれたのが土佐の後藤象二郎で、今度は大阪判事になりましたw←その後も色々…陸奥激しすぎるよw)
はつみの知らない所ではつみを推薦するにあたり、陸奥と小松、あと宇和島の御隠居・伊達宗城(はつみとは元治元年はじめに会っている)以外は割と女性の社会進出とかそこらへんの価値観にはまだ到達していなくて、特に公卿衆や大久保辺りはおなごなにするものぞと超渋っています(笑)
でも三条は武市絡みではつみの事を知っていたし、東久世も高杉やサトウ絡みではつみの事を知っていて、「やはりそういう傑物であったか」という風には思ってくれているんですね。かの孝明天皇にすら座り込みストライキを起こした岩倉がとかくダダこねてそうです(笑)
でも薩摩の強大な実権と潤沢なお財布を握る小松様(笑)の『はつみを西洋の地へ送り出してあげたい』『龍馬と同じ大政奉還派だったこともあり暫くの間安全な場所で匿ってやりたい』という気持ちが強く(あと、龍馬の事もあり…)、友好的で親交の深いサトウらと話をつけ、形ばかりではあるが外国事務局英国事務という外国事務局判事(陸奥や伊藤などが所属)の下になる英国対応専門のポストを作り、英国公使館へ正式に出向(いずれ正式な形で留学)という形を取った。
という流れになるんですね~。
ちなみに小松は薩摩スチューデントなどを英国へ送り出していますが、やっぱり『亡命』扱いの上送り出しているんですよね。なので幕府にバレた時や彼らが取り押さえられた時は、知らぬ存ぜぬで切り捨てるしかない…という危険と背中合わせだったという事で。(長州ファイブもそんな感じね。亡命扱いにて出国。)はつみにはそんな危険な橋を渡る様な事をさせず、今の状況なら『正式な形で』送り出す事もできそうだからおいもきばっちょ!という感じで、小松が色々と調整に働きかけてくれるという訳です。ちなみに木戸さんもかなりサトウとは打ち解け多岐にわたり語り合ったり、長崎では一日中一緒にいたなんて事もあった様です。(帰国するサトウの送別会にもちゃんと来てくれたしねw)でも宗教絡みの所ではかなり強固な意見を持っていた様で、会議中に発言したところパークスから怒鳴り散らされ眉間を寄せて閉口、サトウが仲介に入り何とか…という一面もあったりした様です。なのではつみが海外へ行く事自体は反対という訳でもないけど、総じて色々と不安・心配に思ってはくれているといった様子(笑)女を雇うなんてもってのほか!という保守派ではなく、むしろ「どうせ新政府の役を与えるならその語学力を自分の側で発揮してくれたらいいのに」…というところもある感じ(笑)でも理性で言えば小松が推してる世界への旅立ちの方がかぐや姫の為にはなるんだろうなという事が分かっているので、優しさで見守ってくれている…という感じ。
ちなみにこの『出向』という形は、ドイツ出身のアレクサンダー・シーボルトが15歳の時英国公使館(またはその直前まで決まっていたロシア海軍)に通訳官(あるいはロ海兵?)として採用されたケースを参考にしています。当時すでに日本語を含む5か国語程をマスターしていた天才バイリンガルアレク少年は多国籍かつ15歳にして英国公使館の公使館付き通訳官として採用される事になりました。
(ちゃんとSirと呼ばれている。)
外国人は外国人の登用も積極的に行っていたんですね。しかもちゃんと実力主義!この翌年来日したサトウ19歳はUCLを飛び級かつ首席卒業したにも関わらず通訳生という立場だった事を考えると、アレクの語学力が年齢に関わりなく正当に評価されているという事がよく分かります。
ちなみにアレクは通訳官として、公式の場での英語日本語の直接通訳を恐らく初めて外国奉行(というか老中・若年寄)たちに認めさせたであろう人物だとサトウが言っています。(文久2年秋冬の頃。江戸にて相次ぐ外国人殺傷事件の賠償や今後の外国人待遇改善の為の会議が設けられた時の事で、サトウも同席している)それまでは幕府においてオランダ語が主流で、公式の場などにおいては日本語→蘭語→英語、英語→蘭語→日本語という非効率極まる翻訳だけが認められていたそう。
只でさえ大変な通訳かのに全く関係のない蘭語を交えなければならないという状況の為にニュアンスが伝わりにくく、苛立つ英国側(サトウもこの時若気の至りから余計な事やらかしてめっちゃ怒られてる・笑)。
アレクは英国公使館に入る少し前(丁度第一次東禅寺事件の頃。彼も現場を見に行ったらしい)に幕府の顧問となっていた父シーボルトと江戸に来ていて、日本語がよく分かるという事でよく役人たちと話をしていました。
その経験もあり、アレクは会議の合間に懐中時計を持って役人たちへ話しかけ、これを日本語でしっかりと説明してみせるという粋なプレゼンを成功させ、通訳の簡略化に至ったという事らしいです(流石!)
更にアレクは17歳の時に英国の正式な試験を受け合格し、正式な英国外交官・通訳官として改めて再登用される事になったとの事です。
―さて話を戻し…(ついアレクの話をしてしまった…笑)
こういう経緯で、慶応4年(明治元年)2月、形ばかりではありますが女性の社会進出的な背景も含め公的な立場としてはつみが異例の就任を果たし、3月から横濱の英国公使館(領事館)へ出向します。(当然新政府内での発言力などはほぼないが、公的な立場というのは保障される。)そして寅之進と一緒に英国留学へ出るのが、サトウが賜暇で帰国する翌年の明治2年初めと同じタイミングという事になる訳です。小松とサトウは極めて友好的でいい関係を築いていたのもあり、はつみという女性とその才を想う双方の間で随分細かく調整がされました(笑)ずっと護衛としてついている寅之進も一緒に留学させてやろうという程w
経緯の内大分はしょったけど、はつみが明治2年の始めに留学する経緯というのはこんな感じです。(それでも長いw)
余談ですが、はつみはこの後外交官や貿易商などになるのではなく、安政6年に吉田東洋へ発言した頃からずっと言い続けている『教育』に携わる事を望む様になります。現代の大学にいた頃は教諭になる事を考えていて、大学に入るまでは『幼稚園教諭』を目指していた為にピアノも弾けるという訳です。
英国へ留学するのも、小松やサトウらとよく話をし、英国に『幼児教育』という学科としての概念がすでに確立されている事を受け、明確な目的をもって渡英します。
帰国後は思想を昇華させ、よりグローバルな幼児教育を行う為に本当の『はつみ塾』を立ち上げるのですが、これはまた別の話。
追記:女性初?外交官について
はつみは慶応3年長崎でのイカルス号事件と英米水夫殺人事件についても深く関わり、英国と土佐、幕府の間を立ち回って解決へと導くという歴史改変をおこすので、結果的にサトウらからは『抑圧された女神』ではなく『君こそ外交の女神だ…』なんて言われたりもします(笑)
このイカルス号事件等の解決にあたり、はつみは『土佐・海援隊側の正式な通訳官』として『講和会談』に同席しているという訳です。
ここから時は流れ、この世界線の未来(今現代)においてはつみが注目される時が来ます。イカルス号事件の『講和会談』に公式な通訳官として立ち合ったと証明する公文書が日本側と英国側から確認された事で、世界初の女性外交官(かも知れない!)という話題になる…という。
(当時の外交官というのが長崎の通詞以外にどういう立場であれば認められたのか、ちょっとそこまで勉強不足なので…wただサトウは当時『通訳官』であった。『一等書記官』とされる文献もよく見かけますが、彼は自分の事を『公使館付きの通訳官となった』という表現はしているのですが『書記官』とは一度も記していないんですよね。ミットフォードたちの事はちゃんと『二等書記官』とかいう言い方をしているのですが…。ちなみにウィリスは医官から会計官にもなり副領事にもなり、先に出たアレク通訳官や画家チャールズ(報道関係って事になるのか?)も、通訳官書記官会計官外交官関係なく総じて『外交官』であるという表現もしていた。故に、はつみもこの立場であれば少なくとも当時のサトウら外国人から見れば『外交官』という認識になるのかなぁという考察であります。)
(はつみが現代で注目を浴びる理由というのは、他にもタイムトラベラー説など…wこの世界線での未来ではつみ達が紡いだ歴史がどんな風に語り継がれているのか…というのも少し妄想しているので、また別件で書きたいと思いますw)
イカルス号の講和会談で土佐側、つまり後藤象二郎の補佐(通訳官)として同席するはつみ。ここに至るまでには土佐側との間にあった武市絡みの遺恨が解消されるなど色々あって、当時土佐で迅衝隊の前身である別撰隊などを組織して大幅な軍事改革などに着手してはまた失脚させられたりなどと奮闘している乾も絡んでくる。(龍馬が後藤と提携して海援隊を立ち上げる事に対して反対はしなかったが、どうしても『私怨』が絡んでしまう自分に自己嫌悪に陥りつつ…どうしても後藤と向き合えない心理があった。それが、慶応3年9月、龍馬が6年ぶりに土佐へ上陸した時に……という話。)ああ…早くちゃんと作品として書きたい…w
はつみの後日談、伝記『初桜月伝』に関する追記はこちら
冒頭※記。
※はつみが介入したあの世界線は最終的にパラレルワールドとして完全に派生…について※
ネタバレ…だけど、まぁ今更気にしないよねwプロットも出てるしw
↓↓↓
慶応4年のイースター(春3月末頃)にてイベントが起こり、この時に、桜清丸(トリップ当時から手にしていた刀)などから解放され『時の旅人として存在するのではなく、この時代に生きる一人の女性』となる。
安政6年にトリップして以来殆ど年を取らず月経も止まっていたが、この時よりはつみの体は完全にこの世界線・時空に馴染み、体の老化と共に月経も再開する。(この時28歳だが基本的には19歳の身体のままという事になる)
次元的な視点から見ると、今まではつみがいた世界から一本派生した世界線の上に『新たな歴史』が刻まれていくという形。はつみは元の世界には戻れないが(イベントの際、戻れなくなる様な選択をした)世界線が完全にはつみを抱擁し他の人々と同様に同化したので『歴史の修正』が働く事は無くなり、これから起こり得ること全てが、未来からみた『歴史』として時間を紡いでゆく。
※すべて創作上のストーリー設定なのでフィクションネタ入り混じりです。ご注意ください。
はつみが介入したあの世界線は最終的にパラレルワールドとして完全に派生し(※最下部にて注釈※)、そのまま未来へと向かって我々の知る歴史とは違う歴史を刻み始めるという風に解釈付けてるんだけど、その世界線での今現代くらいの頃にははつみが5000円札の人になるんかなぁと妄想している(笑)
創作のはなし。
チャールズのジャパン・パンチ(風刺漫画。ポンチ絵と呼ばれる人気絵画の元手になったもの)関連で「抑圧された女神」のネタをつくり作品中にも広く浸透させていくのだけど(サトウが執筆し各大名や西郷ら英傑達へ大きな波紋を及ぼす一石となった英国策論の様に、知る人ぞ知るという感じで)この「抑圧された女神」は当時既に西洋で既に注目されていたいわゆる今で言うSDGs(女性の社会進出のところ)と、いわゆる『未開国』であり身分によるゴリゴリの世襲制によって政が行われる日本の様子を風刺にしたキャラクターです(キャラクターそのものはもちろん創作です。チャールズが作ったジャパンパンチのキャラクターというのはMrパンチなどがあります)。
(ちなみに英国人の価値観で女神なんて存在するのかな?と調べたのだけど、ブリタニアという英国を神格化した女神が存在するらしいので、まぁ女神という概念はあるんだなという事で『抑圧された女神』というのが生まれましたw(安直))
文久元年の横濱ではつみと出会った画家のチャールズ・ワーグマンは、最初『随分麗しい日本人男性だな』という軽い気持ちで声をかけました(外国人居留地内では外国人の安全が保障されると同時に文化も尊重され、誰かと気さくに知り会うなんて事もあった様です。でもそれが幕府にバレると横濱の外にある家屋や親戚類は強制的に引っ越しさせられるとか、外国人からは理解できない陰湿な対応もあった様ですが…)チャールズがはつみにカタコトの日本語挨拶で話しかけてすぐ、彼(はつみ)がジェスチャーを交えつつも割としっかりめに英語を話せる事を知り、当然ながらその事に驚きます。英語を操る日本人がこの時長崎を含め何人いたかは分かりませんが、少なくとも横濱に限れば右手で数える程度もいなかったのではないかと思われます。更に、異文化に対し未来志向な思考力や海外の機械や歴史などについてもそれなりの知識を持っている事、他の日本人の様に外国人を極端に珍しがる或いは敵意を持つといった事が無い、本当に日本人なのか?という刺激を受けるんですね。そしてこの時、はつみが一年前に長崎で出会っていたアレクサンダー・シーボルト(16歳。英国公使館付き通訳官になっている)とも再会した事で、チャールズははつみが女性である事を知った上で以後の親交が発生します。 チャールズはコラムニストとして母国英国だけでなく上海でも活動してきた上に、3,4か国語くらい習得しているエリート画家。はつみの才能が今のこの開国したばかりの日本で持て余されている事と男装をしなければ馬や船に成る事も出来ないどころかロクに出歩く事もできないという理由も兼ねて、『抑圧された女神』を生み出したという流れ。
このジャパンパンチは翌年(文久2年6月)頃に横濱で初版が発行され、人気冊子となります。時間を置いて長崎や函館、ゆくゆくは本国英国などにも分布され、丁度上海から帰って来た高杉晋作も長崎でこのジャパン・パンチを手にして『抑圧された女神』を目にし、「僕の知り合いに似た様なおなごがいる」とはつみに想いをはせるなど…(妄想)
ちなみに元治元年6月に四カ国艦隊の長州報復戦争に慌てて帰国した伊藤俊輔や井上聞多も英国でジャパン・パンチを手にした事で「これ桜川くんの事じゃないか?(文久元年江戸で高杉らと一緒に会っている)」とかなっていて、サトウと共に軍艦に乗って姫島(瀬戸内海の島)まで送られる4日間の船旅の中でジャパン・パンチを通してモデルになった女性の話になり、それがはつみだった!知ってるよ!っていう共通の認識が芽生えるに至る…というネタもあったりします。(ネタが多すぎて脱線しがちw)
そのはつみは、色々と紆余曲折あった後に慶応2年の秋から小松を通してグラバー商会(マセソン商会)のインターンとして活動し始めます。(色々あるんですが端折りますw)
ここで世界との貿易を通し、様々な外国文化や国際法、日本人の殆どが習得していない西洋ビジネス・社交のマナーに至るまで多岐に学びます。(華やかな鹿鳴館の頃も外国人の目線で見ると…というあれ)
ちなみにグラバーは「君がアクトレスを目指すなら私がパトロンになるよ」とかいうw
この時グラバー商会のインターンになったのははつみと寅之進、そして陸奥の3人。(寅之進はいわずもがな、陸奥もはつみの影響が強くその言動に歴史改変が起こっている)
『抑圧された女神』の風刺の意味もよく分かっているし、語学はもとより西洋の考え方、文化についても更によく学んだ。
そんな陸奥が慶応3年末、陸奥がサトウの所へやってきて新政府を西洋に認めさせる具体的な方法について話をし、それをまとめて岩倉へ提出した事がきっかけで七局(外国事務局)に採用されるけど(これは史実。あの頃、薩長の派閥もものともせず単独でこれを成す陸奥は本当に優秀です…!この動きがあったお蔭で政府は諸外国に対し局外中立を要請する事ができ、数か月後には無事に公式な信任状奉呈を受ける事ができました。)この時、陸奥が新政府要人に対してはつみの才を推しまくります。
この時の陸奥ははつみと切磋琢磨しまくったお蔭でかなり外国文化に馴染み英語の習得も進んでいました。彼女の指南があったから、自分は少なくとも世界の片隅を見渡せる視野と術(語学力)を持てている。真に才を活かすというのであれば彼女こそ新時代には必要な人材だと、唾を飛ばしながら激論してくれるわけです(笑)
(史実ではこの頃の陸奥はまだ、当時帝や要人の通訳を務めた伊藤や五代らほど英語習得は進んでいなかった様です。亀山社中・海援隊でも勉強はしていたし白峰くんと一緒に長崎の何礼之にも弟子入りして、その才能を名指しされる程期待されていた様ですが。陸奥が英語『マスター』になったのは明治での獄中生活の中で、という見解もある様です。何かの翻訳本を出したりしてましたね。そこうろ覚えw)
(ちなみに陸奥は外国局・外国官になったばかりの明治元年4月頃、相変わらず身分制で役に立たない傀儡が政府の上官にいる事を批判して辞表を叩き付け、更にそんな現状を『自分を卑下する事で』遠回しに非難する論文を当時の新聞にぶッ込んでいます・笑←そんな陸奥を拾ってくれたのが何を隠そう小松で、当時局外中立の影響で面倒な事になっていたストーンウォール号の資金集めの実績を以て会計官になるのですが、ここでも由利公正と意見が合わず唾飛ばしまくって激論する事数回、辞めてやった!との事w←さらにこれを拾ってくれたのが土佐の後藤象二郎で、今度は大阪判事になりましたw←その後も色々…陸奥激しすぎるよw)
はつみの知らない所ではつみを推薦するにあたり、陸奥と小松、あと宇和島の御隠居・伊達宗城(はつみとは元治元年はじめに会っている)以外は割と女性の社会進出とかそこらへんの価値観にはまだ到達していなくて、特に公卿衆や大久保辺りはおなごなにするものぞと超渋っています(笑)
でも三条は武市絡みではつみの事を知っていたし、東久世も高杉やサトウ絡みではつみの事を知っていて、「やはりそういう傑物であったか」という風には思ってくれているんですね。かの孝明天皇にすら座り込みストライキを起こした岩倉がとかくダダこねてそうです(笑)
でも薩摩の強大な実権と潤沢なお財布を握る小松様(笑)の『はつみを西洋の地へ送り出してあげたい』『龍馬と同じ大政奉還派だったこともあり暫くの間安全な場所で匿ってやりたい』という気持ちが強く(あと、龍馬の事もあり…)、友好的で親交の深いサトウらと話をつけ、形ばかりではあるが外国事務局英国事務という外国事務局判事(陸奥や伊藤などが所属)の下になる英国対応専門のポストを作り、英国公使館へ正式に出向(いずれ正式な形で留学)という形を取った。
という流れになるんですね~。
ちなみに小松は薩摩スチューデントなどを英国へ送り出していますが、やっぱり『亡命』扱いの上送り出しているんですよね。なので幕府にバレた時や彼らが取り押さえられた時は、知らぬ存ぜぬで切り捨てるしかない…という危険と背中合わせだったという事で。(長州ファイブもそんな感じね。亡命扱いにて出国。)はつみにはそんな危険な橋を渡る様な事をさせず、今の状況なら『正式な形で』送り出す事もできそうだからおいもきばっちょ!という感じで、小松が色々と調整に働きかけてくれるという訳です。ちなみに木戸さんもかなりサトウとは打ち解け多岐にわたり語り合ったり、長崎では一日中一緒にいたなんて事もあった様です。(帰国するサトウの送別会にもちゃんと来てくれたしねw)でも宗教絡みの所ではかなり強固な意見を持っていた様で、会議中に発言したところパークスから怒鳴り散らされ眉間を寄せて閉口、サトウが仲介に入り何とか…という一面もあったりした様です。なのではつみが海外へ行く事自体は反対という訳でもないけど、総じて色々と不安・心配に思ってはくれているといった様子(笑)女を雇うなんてもってのほか!という保守派ではなく、むしろ「どうせ新政府の役を与えるならその語学力を自分の側で発揮してくれたらいいのに」…というところもある感じ(笑)でも理性で言えば小松が推してる世界への旅立ちの方がかぐや姫の為にはなるんだろうなという事が分かっているので、優しさで見守ってくれている…という感じ。
ちなみにこの『出向』という形は、ドイツ出身のアレクサンダー・シーボルトが15歳の時英国公使館(またはその直前まで決まっていたロシア海軍)に通訳官(あるいはロ海兵?)として採用されたケースを参考にしています。当時すでに日本語を含む5か国語程をマスターしていた天才バイリンガルアレク少年は多国籍かつ15歳にして英国公使館の公使館付き通訳官として採用される事になりました。
(ちゃんとSirと呼ばれている。)
外国人は外国人の登用も積極的に行っていたんですね。しかもちゃんと実力主義!この翌年来日したサトウ19歳はUCLを飛び級かつ首席卒業したにも関わらず通訳生という立場だった事を考えると、アレクの語学力が年齢に関わりなく正当に評価されているという事がよく分かります。
ちなみにアレクは通訳官として、公式の場での英語日本語の直接通訳を恐らく初めて外国奉行(というか老中・若年寄)たちに認めさせたであろう人物だとサトウが言っています。(文久2年秋冬の頃。江戸にて相次ぐ外国人殺傷事件の賠償や今後の外国人待遇改善の為の会議が設けられた時の事で、サトウも同席している)それまでは幕府においてオランダ語が主流で、公式の場などにおいては日本語→蘭語→英語、英語→蘭語→日本語という非効率極まる翻訳だけが認められていたそう。
只でさえ大変な通訳かのに全く関係のない蘭語を交えなければならないという状況の為にニュアンスが伝わりにくく、苛立つ英国側(サトウもこの時若気の至りから余計な事やらかしてめっちゃ怒られてる・笑)。
アレクは英国公使館に入る少し前(丁度第一次東禅寺事件の頃。彼も現場を見に行ったらしい)に幕府の顧問となっていた父シーボルトと江戸に来ていて、日本語がよく分かるという事でよく役人たちと話をしていました。
その経験もあり、アレクは会議の合間に懐中時計を持って役人たちへ話しかけ、これを日本語でしっかりと説明してみせるという粋なプレゼンを成功させ、通訳の簡略化に至ったという事らしいです(流石!)
更にアレクは17歳の時に英国の正式な試験を受け合格し、正式な英国外交官・通訳官として改めて再登用される事になったとの事です。
―さて話を戻し…(ついアレクの話をしてしまった…笑)
こういう経緯で、慶応4年(明治元年)2月、形ばかりではありますが女性の社会進出的な背景も含め公的な立場としてはつみが異例の就任を果たし、3月から横濱の英国公使館(領事館)へ出向します。(当然新政府内での発言力などはほぼないが、公的な立場というのは保障される。)そして寅之進と一緒に英国留学へ出るのが、サトウが賜暇で帰国する翌年の明治2年初めと同じタイミングという事になる訳です。小松とサトウは極めて友好的でいい関係を築いていたのもあり、はつみという女性とその才を想う双方の間で随分細かく調整がされました(笑)ずっと護衛としてついている寅之進も一緒に留学させてやろうという程w
経緯の内大分はしょったけど、はつみが明治2年の始めに留学する経緯というのはこんな感じです。(それでも長いw)
余談ですが、はつみはこの後外交官や貿易商などになるのではなく、安政6年に吉田東洋へ発言した頃からずっと言い続けている『教育』に携わる事を望む様になります。現代の大学にいた頃は教諭になる事を考えていて、大学に入るまでは『幼稚園教諭』を目指していた為にピアノも弾けるという訳です。
英国へ留学するのも、小松やサトウらとよく話をし、英国に『幼児教育』という学科としての概念がすでに確立されている事を受け、明確な目的をもって渡英します。
帰国後は思想を昇華させ、よりグローバルな幼児教育を行う為に本当の『はつみ塾』を立ち上げるのですが、これはまた別の話。
追記:女性初?外交官について
はつみは慶応3年長崎でのイカルス号事件と英米水夫殺人事件についても深く関わり、英国と土佐、幕府の間を立ち回って解決へと導くという歴史改変をおこすので、結果的にサトウらからは『抑圧された女神』ではなく『君こそ外交の女神だ…』なんて言われたりもします(笑)
このイカルス号事件等の解決にあたり、はつみは『土佐・海援隊側の正式な通訳官』として『講和会談』に同席しているという訳です。
ここから時は流れ、この世界線の未来(今現代)においてはつみが注目される時が来ます。イカルス号事件の『講和会談』に公式な通訳官として立ち合ったと証明する公文書が日本側と英国側から確認された事で、世界初の女性外交官(かも知れない!)という話題になる…という。
(当時の外交官というのが長崎の通詞以外にどういう立場であれば認められたのか、ちょっとそこまで勉強不足なので…wただサトウは当時『通訳官』であった。『一等書記官』とされる文献もよく見かけますが、彼は自分の事を『公使館付きの通訳官となった』という表現はしているのですが『書記官』とは一度も記していないんですよね。ミットフォードたちの事はちゃんと『二等書記官』とかいう言い方をしているのですが…。ちなみにウィリスは医官から会計官にもなり副領事にもなり、先に出たアレク通訳官や画家チャールズ(報道関係って事になるのか?)も、通訳官書記官会計官外交官関係なく総じて『外交官』であるという表現もしていた。故に、はつみもこの立場であれば少なくとも当時のサトウら外国人から見れば『外交官』という認識になるのかなぁという考察であります。)
(はつみが現代で注目を浴びる理由というのは、他にもタイムトラベラー説など…wこの世界線での未来ではつみ達が紡いだ歴史がどんな風に語り継がれているのか…というのも少し妄想しているので、また別件で書きたいと思いますw)
イカルス号の講和会談で土佐側、つまり後藤象二郎の補佐(通訳官)として同席するはつみ。ここに至るまでには土佐側との間にあった武市絡みの遺恨が解消されるなど色々あって、当時土佐で迅衝隊の前身である別撰隊などを組織して大幅な軍事改革などに着手してはまた失脚させられたりなどと奮闘している乾も絡んでくる。(龍馬が後藤と提携して海援隊を立ち上げる事に対して反対はしなかったが、どうしても『私怨』が絡んでしまう自分に自己嫌悪に陥りつつ…どうしても後藤と向き合えない心理があった。それが、慶応3年9月、龍馬が6年ぶりに土佐へ上陸した時に……という話。)ああ…早くちゃんと作品として書きたい…w
はつみの後日談、伝記『初桜月伝』に関する追記はこちら
冒頭※記。
※はつみが介入したあの世界線は最終的にパラレルワールドとして完全に派生…について※
ネタバレ…だけど、まぁ今更気にしないよねwプロットも出てるしw
↓↓↓
慶応4年のイースター(春3月末頃)にてイベントが起こり、この時に、桜清丸(トリップ当時から手にしていた刀)などから解放され『時の旅人として存在するのではなく、この時代に生きる一人の女性』となる。
安政6年にトリップして以来殆ど年を取らず月経も止まっていたが、この時よりはつみの体は完全にこの世界線・時空に馴染み、体の老化と共に月経も再開する。(この時28歳だが基本的には19歳の身体のままという事になる)
次元的な視点から見ると、今まではつみがいた世界から一本派生した世界線の上に『新たな歴史』が刻まれていくという形。はつみは元の世界には戻れないが(イベントの際、戻れなくなる様な選択をした)世界線が完全にはつみを抱擁し他の人々と同様に同化したので『歴史の修正』が働く事は無くなり、これから起こり得ること全てが、未来からみた『歴史』として時間を紡いでゆく。