2021年09月05日

以蔵のこどもについて

今作において以蔵は歴史IFとして生存が確定している。
子供は以蔵にそっくりで、明るく働き者の肯定感と大勢の人の中で活き活きと育っており、顔はそっくりながらその表情は以蔵の幼少期とは別物である。

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 直人(なおひと)/ 明治2年(5歳)
 元治元年、4月うまれ
 父:岡田以蔵
 母:京甘味処『鈴蘭』の看板娘、お道

【主な概要】
・はつみの行動によって以蔵は一切人斬り・天誅を行っていない。(但し、文久3年に勝海舟の護衛をしている時に浪士2人を斬っており、同時期はつみを襲撃しに来た田中新兵衛と私闘を行っている。)
・以蔵は元治元年5月に土佐藩士に見つかり強制移送される(強制移送そのものは史実通りだが窃盗は働いておらず洛中追放とはなっていない)が、その直前にはつみと共にお道の出産に立ち会い、この子に会っている。 
 (SS【以蔵】命の重み)
・自分とは違う、素直な人間であってほしいとの願いから『直人』と名付ける。
・はつみの行動と子供との邂逅によって精神的に成長・強くなっており、勤王党の活動については自白をしない。(はつみと行動をする事が多かった為実際知らない事も多く、自白する様な事もない。とはいえ嘘の供述をして拷問から逃げる事もしなかった。)
・慶応元年閏5月、死刑にならない。
(島村寿太郎らの『永牢』に対し、勤王党との関りは薄いと判断された上、幕臣勝海舟護衛時の殺人は不問となり、薩摩藩士との私闘と無許可での単独移動などにより『士分剥奪・城下追放』の処分を得る。公表はされなかったが、長い間武市との親交があった事による疑惑は完全には晴れておらず、武市が不敬罪極まるとして処分される影響でやや重めの処分となっている。)
・武市の吹井の家近くに住み、陰ながら富を助けつつ、共に墓守をする。
・慶応3年9月、薩土盟約に則り乾退助が島村寿太郎ら土佐勤王党員を釈放し、名実共に『土佐勤王党を継ぐ盟主』となる。返り咲いた乾により以蔵の『士分剥奪・城下追放』も解除されたが、以蔵は城下にて広く応募された軍隊組織『士格別撰隊(迅衝隊の前進)』に加わる事はなく、富と共に静かに吹井で武市の墓守を続けていた。
・武市と共に幾たびも剣術修行を行いその懐刀と言われながら、その剣技を『封印』し続けていた以蔵に士格別撰隊への入隊打診がある。(乾が直接話をしにやってきた。はつみの言伝がある。)富からも背中押される形で、技量試しとして行われる城下広場での乱取りに参加。以蔵は誰にも負ける事はなかった。食い扶持や金が保障されると聞いて入隊を決める。

略(『上士』たる乾、富、弟ら、そして龍馬はつみら、武市との絆など。詳細は全プロットおよび以蔵キャラ別プロットにて。)

・慶応4年、官軍土佐迅衝隊、精鋭遊撃隊隊長として出陣。厳しい隊規律にも順応。
 世は既に銃撃大砲の時代となっていたが精鋭の機動力の高さを活かした歩兵部隊は大活躍する。
 空間把握能力とそれに見合った頭の回転の速さに長けた以蔵の才能が大開花した。
・日光付近では剣豪・永倉新八と対峙したり、二本松の少年部隊と遭遇。会津城下ではゲリラ抗戦を繰り替える斎藤らに対応したりしている。
・同年(明治元年)11月、板垣への凱旋勅令にともない、板垣らと共に江戸・土佐へ凱旋する。
・吹井に戻り武市の墓守をしながら、京の妻子を想い脱藩を考える。(正式な出国許可などの発想が無かった為)
・12月、はつみと会った板垣が以蔵の事情を知り、自ら相談に乗る。
・明治2年、出国許可が下り、京へ向かう。5歳となった直人と再会する。
・甘味が苦手な甘味処の亭主となる。
・以蔵は幼少期から剣の天才であったが、直人は剣に触った事もなかった。しかし以蔵が稽古をつけるとみるみる内に実力を伸ばしていった。

~幕末編~ここまで


※幕末・番外編
・留学中のはつみへ直人と共に手紙を送り、はつみからは絵葉書が送られた。


※明治編
・明治編でも以蔵はお道と共に鈴蘭を経営しているが、直人が10歳になった明治7年頃、英国公使館付きはつみの給仕役となり英語や外国情勢について学ぶ機会を得る。
・明治8年。以蔵、鈴蘭の女将が逝去した為、喪が明けた明治9年はじめに土佐へ移住する。はりまや橋の近くに再び甘味処『鈴蘭』を構えた。京仕込みの菓子という事で人気の店となる。
・以蔵、はつみの仲介で士族としての録を返上し町人となる。南北戦争にも不参加。
・直人、15歳(明治12年頃)になるとアーネスト・サトウ一等書記官の人事により横濱英国領事館の通訳生として契約雇用される。
・明治13年。アーネスト・サトウが3度目の賜暇にて帰国する。
・明治14年。直人17歳、英国国家試験にも合格し正式に通訳官としての雇用が打診されるも、土佐で自由党を立ち上げた板垣退助のもとへとはせ参じる為、急遽辞退する。(尚、A.F.シーボルトも17の時に英国国家試験に合格し正式雇用となっている)
・明治15年。直人18歳、土佐へ戻り板垣退助が党首となった自由党の門をたたく。領事館務めの最中に見聞きした自由民権運動の活動に併せて、父・以蔵が板垣の元で軍役に就いていた頃の話やはつみからの話で板垣の思想や人柄に傾倒していた。
・板垣は直人を快く迎え入れ、更に側近として取り立てた。剣と銃の扱いに長け、通訳としての実力も西洋文化への理解度も『英国』そして『はつみ』のお墨付き。そんな直人自身のスキルが貴重であった事も勿論だが、以蔵は学識が浅いにも関わらず非常に自頭が良く有能であった事を評価しての採用でもあった。
・酒の席では板垣が直人にはつみの話題を振る事もあった。
などなど



natsukaze777
 カテゴリ:  創作用メモ