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◆三千世界の鴉を殺し…
後編
高杉は懇意とする豪商・貞永邸へ向かうと、二階を借りると言ってトントンと軽快に階段を登って行った。はつみも手を引かれる形で共に二階へ行っており、主人の正甫はにこにこしながらそれを見送る。何か酒か肴でも持っていこうかとする家人達に対し『今は必要なし。お二人そっとしておこう』と伝え、二階からは人払いまでする気の回し様であった。
主人がその様に『粋な気遣い』をしているとは露知らず、部屋に入った高杉は無造作にゴロリと横になり、両足をあげて柱にかけるとはつみに膝枕を所望する。
「え、ひ、膝枕…?」
「なんだ、いやなのか?」
「いや…嫌じゃないですけど…」
真正面から堂々と恥じらう様子もなく膝枕を所望されるなど意外とない経験だったので、躊躇ったというか怯んだと言う方が心情的には正しかった。一体どういうツモリなのか当たり前の様に膝枕を待っている高杉に、仕方なく膝を貸してやる形となる。
「恋人じゃないんだから…」
「恋人、か。」
満足気にはつみの膝枕に頭を乗せる高杉は、改めて両足を柱にかけながらフンと鼻で笑う。
「君の言う恋人とはどういった奴の事だ?」
「えっ…だから…こういう事をする人たちの事を…」
「僕は違うな」
―異論あるか?と言いたげに視線を上げてきた高杉に、はつみはフゥと肩で息をつく。
「もう…しょうがないなぁ高杉さんは」
「何をいまさら。僕はしょうがない人間だよ」
「またそんな事を言って…」
はつみの呆れた様な声も聞こえぬ振りをして高杉は目を閉じる。
「(僕の思う『恋人』はな…)
(恋をした相手、それはもうすでに『恋人』だ…)」
だから、君の膝枕を要求するのだ。
一息ついて再びゆっくりと瞳を開き、己の眼前に影を落とす『恋人』を見上げる。
何となく想像はついていたが、彼女も自分の顔を覗き込んでいた。無防備なその唇を引き寄せてしまいたいと思いながら、なぜ他の女達と同じ様にそれができないのだろうとも思う。
「…なんだ?人の寝顔を眺めて悦になる趣味でもあるのか?」
「なっ!ちがっ…!寝ちゃったのかと思っただけです!」
自分の不甲斐なさなどは棚に上げてわざとからかう様に言うと、いつぞやの様な懐かしい表情を見て取れる。愛した男を次々と亡くし己の存在意義に疑問を持つかの様に輝きを失いつつあった彼女にも、まだこの様な顔を見せてくれる部分が残っているのかと、柄にもなく少しばかり嬉しくなってしまった。
「…あの…高杉さん…」
しかしはつみは再び神妙な顔つきとなって語りかけてくる。高杉はわざと目を閉じ、「なんだ?」と返した。彼女が先の船上での話の続きを聞きたがっている事が、なんとなくわかったからだ。
―『未来を知っているのだろう』という事。
半分鎌かけで切り出した話であったが、どうやら彼女の反応を見る限りこの奇妙で信じがたいは推察は強ち空振りではなかったという事の様だ。
―つまり、彼女は比喩でも何でもなく、正真正銘のかぐや姫…
ここではないどこかにに住んでいた人である…という事。
高杉が思う所では、さしずめ『明後日に住む人』というところであった。『明後日しあさっての人間』とはばかばかしい話だが、彼女に出会ってこの方、この女子は驚くべき言動と輝きを放ち続け、この高杉をしても殆どまったく思うようにはいかず『そこらの女子とは打って変わって扱い方が分からない』と胆を煮やした日もあった事を思えば…妙に納得はできてしまう。
―そう、『かぐや姫』とは散々男の気を惹き振り回しておきながら、自身は颯爽と月へ帰ってしまう。そういう娘だったのだと思えば。
「…ふ…」
目を閉じたままふいに笑う高杉に、はつみは小首を傾げる。高杉は両腕を上げると頭の後ろで手を組む代わりにはつみの細い腰へとまわし、指先を組んで「ふぅ」と一息ついた。そして目を閉じたままはつみに応える。
「…その話はあとじゃ。今は…このまま少し休ませてくれ…」
「…はい。わかりました」
はつみの返事には不服そうな色は伺えなかった。膝枕は心地よく高杉の頭を支え、戦前のひと時に十分な安らぎをもたらしてくれる。心地よく眠りへの道筋が見え始めた頃、はつみの指が前髪に触れるのを感じた。指先で軽く髪束を整えようとするその動きがまた心地よく…高杉は桜色にうすぼやける深層へ吸い込まれる様にして、眠りに落ちて行った。
翌朝、日の出直後の真新しい朝日に照らされる穏やかな瀬戸内海へ、再び丙寅丸が出て行く。船首には上機嫌の高杉が仁王立ちしており、はつみは船長高杉のみが許される船長室のベッドで眠りこけていた。
昨日あのまま高杉が本格的に寝落ちしてしまった為、はつみは彼が目覚める明け方まで座ったまま眠ったり起きたりを繰り返していた。高杉が目覚めたのは夜明け前で、多少膝枕は崩れていたが彼女のぬくもりが頬や頭を優しく包み込む中での目覚めだった。ずっと彼女の体の上に眠っていたのかと思うと妙に浮かれる本心を認めざるを得なかった。気付かぬうちに主人らが部屋の奥に布団を敷き、握り飯と白湯を包んで置いておいてくれていた様だったので、高杉は自分よりも背の高いはつみを抱きかかえ、寝ぼける彼女に『何もせん、寝ろ』とぶっきらぼうに言いつけながら布団へと寝かせてやった。そして今度は高杉がはつみの寝顔を眺めながら、丙寅丸出航の刻まで静かな時を過ごしたのである。
『何もせん』と言った言葉の真意を、自分に問いかけながら。
この様に高杉の身は潔白であったが、同乗していた者達は昨日から『恋人』めいた二人を見ていて、いよいよ不埒な噂で持ち切りであった。
機関室の田中の元へ顔を出した山田はそわそわした様子でこう切り出す。
「…高杉さんと桜川殿は…夜通しお楽しみじゃったんかな」
「おま…あからさまに何を言うぜよ…」
二人ともこのテの話には慣れていなさそうな純朴さが見て取れるが、興味は津々だし妄想も捗る様だ。
「昨日高杉さんが桜川殿の手を引いて陸へ行ったじゃろう?…そのあと…朝まで…そいで桜川殿は疲れ果てて…」
「おいおいおい仕事に集中できんぜよ!蒸気が爆発してもええがか?!」
「けんど気になるっちゃ」
「まぁ…気にはなるなぁ……正直うらやましい!」
「ああ、戦前っちゅうのは分かってはいるが…正直、正~直、うらやま」
「何が羨ましいんじゃ」
「「うわあっ!!!た、高杉さんっ!!!!!」」
突然顔をみせた高杉に、話の内容が内容なだけに腰が抜ける程驚く二人。高杉の方はまじめに戦の事で二人に申し伝えがあった様で、二人は慌てて邪念を振り払い高杉の作戦に耳を傾けるのだった。
その日の昼過ぎ、丙寅丸は大島北の対岸付近(遠崎沖)に姿を現し、今にも進軍しようと大島の幕府軍を睨みつけている長州兵・奇兵隊と合流する。研ぎ澄まされる思考回路により高杉の頭の中ではもう既に戦図が出来上がっていた為、合流した先で戦会議の場も設けられたのだが。
「今夜僕の船で奇襲作戦を決行してみせるから、本隊による上陸作戦はその後という事で任せる」
という話であっという間に決定してしまった。
はつみは船室の『ベッド』がよっぽど心地よかったのかいまだに惰眠をむさぼっており、丙寅丸では高杉、そして山田、田中らを中心とした今宵の『奇襲作戦』について軍議が執り行われるのだった。
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◆三千世界の鴉を殺し…
中編
「高杉さん!来たぜよ!」
「おう坂本君、御到着か」
洋装軍服に例の上海で購入したお気に入りのコートを羽織った高杉(谷)が、部屋の中央に置かれた大机に海図を敷き広げ、仁王立ちをして一行を迎え入れる。
事にはつみの姿を見た彼はにわかに眉を上げた。
「なんじゃ、この鉄砲娘はまた戦場に身を乗り出すのか?それとも、また僕に説教でも垂れに来たか?」
元治元年の四カ国艦隊報復戦争の事、更にさかのぼれば出会ったばかりの頃から『顔を合わせては説教』ばかりだった彼女との顔合わせについて言っているのだろう。世間一般では女が船に乗るどころか往来で男と連れ立って闊歩する事自体、周囲をざわつかせるのに十分なのであって、いくら男装しているからといって自ら戦場へ赴こうとするなどまったくもって『女の道』を外れる行為であった。―とはいえ高杉ならではの『冗談』であるのは一目瞭然で、まともに考えた所であらゆる価値観の違う『今生かぐや姫』とも言える彼女に対しては今更な話なのも重々承知の上の『冗談』である。高杉なりに、今想定される彼女の心情を推し量った上でワザとその様な事を言ったのだった。
「いえ…社中一員として出来る限り頑張ります」
しかしはつみの反応は思っていた程宜しくない。すかさず龍馬が道化を演じて場をごまかす程だ。高杉は知らぬ顔で流されてやったが、はつみの様子がおかしい事は先月はじめにワイルウェフ号の事があったと報告を受けた時から想定していた為、大方察しが付いていた。
ワイルウェフ号沈没時に同時出港していたユニオン号(現乙丑丸)には、長州から薩摩への兵糧500俵と共にはつみも乗っていたと聞く。薩摩がこれを謝辞したと長州へ報告に戻って来た際には彼女の姿はなかった。その間、自然の篩にかけられ沈没したワイルウェフ号の犠牲者を追悼していたと聞いている。
…彼女がまた大切な者を亡くしたのだという事は、誰に聞いた訳でもなく察していたという訳だ。
―それはそうと、と高杉は話を切り替える。彼女との再会を喜びたい内心を押さえつつ、今は矢継ぎ早にやらねばならぬ事が押し寄せているのが現状であった。
この時すでに周防大島は開戦の火蓋を切っており、次々と伝令などが舞い込んでいる。
「松山が大島の住民らに狼藉などやってくれおってな。兵を送り、僕も丙寅丸で大島へ向かう事になった。その後小倉方面に乙丑丸も出すつもりじゃが、坂本君、君らもこの船に乗って戦場にでるつもりはあるか?」
「おお!もちろんぜよ!『あん時』高杉さんに言うた事は忘れちょらんき、ついにその日が来たっちゅう訳じゃ。」
「ははは!実に愉快じゃな!坂本君、期待しとるよ」
と、ひと昔前のはつみなら『あん時って?二人で何を話してたの?』などと気さくに首を突っ込んでくるところだろうが、どうやら今はそういう心境ではない様だ。彼女も一応愛想笑いの様なものを浮かべてはいるが、いつぞや自分を真正面から説教をしていた頃の様な輝かしい様子は殆ど見受けられない程に、背負う影が濃かった。
「船か港付近で待機しておいてくれ。」
「おう!わかったき」
簡潔に述べる高杉に龍馬がそう応答した直後、高杉達の会話が終わるのを待っていた伝令や相談者が立て続けに報告に駆け込んできた。当然ながら今この時も最前線では戦闘中、或いは現場から放たれた伝令が随時移動中であり、報告や会議は常に絶えない。更に、功山寺決起の際には非常に才気あふれる采配で勝ち戦を進めた高杉の存在は今の長州の支えそのものと言ってよかった。そうやって人心をも掌握するが故に多忙を極める彼の元から去った龍馬達は、乙丑丸に乗り込み伊藤と連絡を取り合いながら戦準備を進めるのだった。
「…はつみさん、大丈夫でしょうか」
「ん…そうじゃのう…」
甲板に立ち遠くの海を見つめているはつみの後ろ姿を、離れた場所から見つめる寅之進と龍馬。ひと月前に亡くなった池内蔵太との関係をはつみから直接聞いた訳ではなかったが、色々と察しの鋭かった陸奥が内蔵太から直接聞き出していた為、龍馬達ははつみと内蔵太の事情をある程度には理解していた。
武市に次いで内蔵太をも亡くした。『大切だと思える人』を立て続けに亡くした彼女の心はどれだけか深く傷ついただろうか。それだけでなく、彼らが亡くなったその責任が自分にあるかの様に思い詰めている節も見られた。
「…何であろうとわしらははつみさんを『支える』。その道を見つける。…ただそれだけぜよ」
「………はい。」
『でも、龍馬さんは…』と言いかけて、寅之進は大人しく頷いて見せた。
寅之進はわかっている。自分にははつみを受け止める器がない事を。それがない自分に嘆く夜はいまだにあるのだが、頭の中では、己の使命は『ただはつみの傍に在り続け、彼女を守り支える続ける事』なのだと納得しているし、それがはつみ本人によって許されている今の立場に誇りも感じている。しかし龍馬はそうではない。彼には器がある。何よりそれを武市自身が認めていたのだから…。それなのに龍馬は自らが抱くその器を見て見ぬ振りしているのか、寅之進と同じ様な『保護者』の様な目線ではつみの傍に居続けている。…内蔵太の事だってそうだ。『あの日』、敢えてはつみと内蔵太を長崎に残し、龍馬は寅之進を連れて薩摩へと向かった。はつみと内蔵太がそういう仲になればと内蔵太の背中を押したのは龍馬だったのだ。その事にも寅之進は気付いていたが、何も言わなかった。だがその時も今回と同じ事を思ったのだ。
『何故、龍馬ほどの器を持つ人がはつみを受け入れようとしないのか。本人もはつみを異性として大切にしているのは、傍から見ていて明確なのに』
…と。
最前線であった大島では、占領した敵兵(松山藩兵)による暴力・略奪・虐殺が多発。島の北と南から敵軍の砲撃と上陸を受け滅茶苦茶な状態で、応戦していた長州兵も敵方の日本最新鋭にして最大級の蒸気船・富士山丸やその他二隻の精鋭蒸気船による砲弾幕に撤退を余儀なくされていた。
高杉はその惨状に対処するべく任を受け、敵方の富士山丸に対しその10分の1程の排水量でしかない丙寅丸に乗り込んで大島へ向かうという訳だ。
―の筈だったが。
その前に高杉は忙殺される合間を縫って馬を駆り、港で戦支度の為に碇泊している乙丑丸のもとへと現れる。甲板で黙々と作業をしていたはつみの耳にも、無遠慮に駆け寄ってくる蹄の音とどうを掛けられていななく馬の声が聞こえた。ザッという人が降り立った音と共に颯爽と歩き出す音も聞こえ、誰か来たのかと思った矢先。
「はつみ!!!!!おるか!!!!!!!!」
突然大きな声が響き渡り、忙しく戦支度をしていた者達がなんだなんだと顔を出し桟橋へと視線を落とし始めた。高杉は自分を見下ろす見物人の中にはつみの顔を見つけると挑戦的にニヤリと微笑み、『今そっちへいくぞ』とばかりにはつみを指をさし、コートの裾を翻しながら遠慮なく乙丑丸へと乗り込んでいく。
「た、高杉さんどうしたんです?!」
魔王(サトウ曰はくLucifer)の如く無遠慮に甲板へとやってきた高杉に慌てて駆け寄ったのは、乙丑丸の薪水調達を世話してくれていた伊藤俊輔だった。龍馬と寅之進、そして後からはつみもこの輪に合流した。
「大島はどうされたんです!?」
「そう騒ぐな。大島へはこれから向かう所じゃ。」
まったくおのしは小うるさいなと言わんばかりに顔を歪める高杉は、伊藤もそっちのけに直ぐはつみの方へと向き直った。そして何のためらいもなく、真っすぐに声をかける。
「僕の船に来い。共に行くぞ」
「高杉さん!」
伊藤が声をあげるのを龍馬が制止し、一歩前へ進み出る。
「高杉さん、一体どういうつもりぜよ」
「おお坂本君。君は『一体何をしておるんだ』?」
少々ひっかかる物言いをする高杉であったが、誰もがその言葉の意味を理解できずにいた。
「何って、戦準備を―」
「あぁ違う違うそういう事じゃあない。だが説明してやる間も無いのでな。」
そう言うと有無も言わさずはつみの手を取り、あっと驚く周囲の目線も気にせず、午後の日差しを浴びて鼈甲の様に透ける彼女の瞳を真正面から見つめる。
「どうせ戦に赴くのであれば、一度はこの高杉の戦をお目にかけたい。
来い、はつみ。」
「―はい。」
「!はつみさん…」
はつみが頷くと彼女と対面する男4人はそれぞれに違う表情を浮かべ反応した。高杉は『うむ』と力強く頷き、龍馬は心配そうに言葉を失い、寅之進は戸惑い、そして伊藤は苦々しく眉間に皺をよせる。
「高杉さん!なんて無茶な…はつみさんにとっても危険ですし、同船する者達にとっても動揺を招きますよ!」
はつみの手を引きながらツカツカと歩き出す高杉に並行して伊藤が食いつく。龍馬は彼らを追わず、追わない龍馬に戸惑って寅之進も動けずにいた。
張り付いて苦言を呈してくる伊藤をかわしながら下船した高杉はひらりと馬に乗るとはつみにも手を指し伸ばし、後方へと乗せてやった。そして最後の最後まで考え直せと言ってくる伊藤や甲板上から意味深な視線で見下ろしてくる龍馬、そして寅之進へと視線を送る。周囲の視線を受け、さあ何を以て申し開きしてくるのかと思いきや。
「―それでは諸君!!健闘を祈る!!!」
「えっ!?ちょっ高杉さん!」
覇気のある声でそう言うと乗組員たちの「おーっ!」という掛け声を背に、伊藤の制止もむなしく威風堂々とした様子で馬を駆り去っていった。『聞く耳持たず』という言葉を見事に体現しきった、唯我独尊を極めし一幕であった。
伊藤が再びユニオン号に乗り龍馬達の所へ行くと、高杉の破天荒すぎる無茶振りに謝罪しつつも『何故止めなかったのか』と龍馬に尋ねる。馬で走りゆく二人の姿に視線を投げかけながら、龍馬は大きく息を付き、呟いた。
「…『何をしておるのか』、か…。げにまっこと、おんしの言う通りぜよ…」
「???坂本さん?」
さっきは咄嗟に理解できなかった高杉の言葉。有無も言わさず嵐の如くはつみを搔っ攫っていった彼を見て、やっと分かった気がしたー。
高杉がはつみを連れて丙寅丸に乗り込むなり、蒸気を噴き上げ汽笛を鳴らし、高杉達は大島へと向けて瀬戸内海を進み始めた。高杉は船室には入らず常に甲板で乗組員たちに声を掛けては笑い声をあげ、自然と皆の士気と団結を高めている様だ。丙寅丸の砲術長は最後の松下村塾生である山田市之允、そして機関長は元土佐勤王党である田中顕助が務めていた。この田中とは顔見知りであり、特に東洋暗殺の前後に渡っては討論を繰り広げたものであった。(彼の叔父は東洋暗殺の下手人那須であり、田中自らも関わったと疑われていた) 文久三年818政変を期に謹慎処分を言い渡され、元治元年夏になるとついに脱藩し、長州へ逃れた。高杉に心酔し『弟子入り』を申し出たらしく、薩長同盟初期の頃においても中岡と共に行動して西郷を説得し続け、はつみ達とは違う切り口から貢献していた。
このように彼らもはつみとは要所要所で再会をしていたが、まさか高杉が自ら連れてこの丙寅丸に搭乗させるとは思ってもみなかった様で、その心情を推し量るに際し、武市といい高杉といい何故この娘に夢中になるのかと事ある毎にはつみを見やっていた。
はつみは船首付近の程よい場所に腰掛け、潮風を浴びながらキラキラと輝く瀬戸内海を見やっている。これから戦闘が始まるなど、まるで他人事の様な気持ちで受け止めていた。
「随分と落ち着いておるな。」
一通り周回し終えたのか高杉が戻って来た。はつみの傍までやってくると近くの手すりに寄りかかり、腕を組んで視線を送る。
「それとも怖くなったか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
はつみは相変わらずの『愛想笑い』だ。高杉のまっすぐに自分を見据える視線に気付いてか気付かないでか、目を合わせようとはせず彼女は高杉の衣服へと視線を向ける。
「高杉さん、洋装似合ってますね」
「ははっ、何を言うかと思えば。」
黒い詰め襟のジャケットとストレートパンツといった軍装は、『高杉といえば着流し風』というイメージの強いはつみからするとかなり真新しい姿だった。海上の強い日差しで暑さもある故かいつものコートは脱いでおり、襟を開き腕捲りをして着崩している。また、腰には刀と共に酒瓢箪を下げ、胴には短刀と扇を差している。それもどこか粋で高杉らしいなと思う。
「拳銃も持っておるぞ。」
腰の後ろにホルスターを付けており、そこにはつみに譲渡したのと同じ拳銃S&Wを装着していた。君も持っているな?と言われると、はつみは上着の胸元を開いて内シャツを覗かせ、装着したショルダーホルスターの左脇下に潜ませるS&Wを見せてやった。満足気に頷いた高杉は
「今回の戦で使うかも知れんからな。めんてなんすをしておけよ?」
と付け加える。
「はい、バッチリです。」
ようやく視線を合わせてきたはつみは親指を立て『ぐーど』という諸外国でいう所の『Good』の動作をしてみせた。そしてまた愛想笑いを振る舞った後、潮風に暴れる前髪を払うかの様に顔を上げ、そのまま遠くの水平線を見つめ始めた。
高杉は手すりに寄りかかり腕を組んだまま、はつみの横顔をじっと見据える。
「…自らも海に散ろうと考えておるのか?」
「え…?」
はつみの視線が水平線から外され、すーっと吸い寄せられる様に高杉の視線と重なる。まっすぐ射抜く様な視線も、後ろに寄りかかり腕をくんだ体制も声のトーンも変えないまま、更にもう一言付け加えた。
「亡くした者を追って」
「……そんな事は…」
二人の間には池内蔵太の顔が浮かんでいた。高杉は内蔵太とは江戸で知り合いよく語り飲み明かした。共に闘ったし逃亡もしたし、井戸に潜伏した時は場に合わない色恋の話などもした、戦友と言っていい存在だった…と、はつみも生前の内蔵太から聞いている。故に今高杉が何の事、誰の事を言っているのかはすぐに察した様だ。
だが口にした返答には迷いが見て取れ、実際彼女が死のうとしている訳ではないのだとしても、深い悩みの為にかつての輝きを失いつつあるのは明確に分かった。
「止めておけよ。後追いなど君には似合わん」
「……」
つっけんどんな物言いにはつみは視線を落とし、言葉を返す。
「…大丈夫…。私は皆さんの様に、命を懸けて何かを成すという事が…まだよく分からないままなので……」
「構わん。適材適所という言葉がある。君はそれでいい。」
平然と、真正面からはつみを見据えて言い切る高杉。やはり彼は、はつみを否定する意図があってこういう物言いをしている訳ではないのだ。突然軍艦を買ってみせたり自分を連れ去ったり、周囲から『破天荒』だと思われる様な行動も彼の思考回路の中ではしっかりと計算が組まれている。
「…高杉さん、もしかして私を心配して連れ出してくれたんですか?」
「ーんっ?!」
真っ直ぐにはつみを捉えていた高杉の目がパチリと見開かれ、図星だとばかりに口ごもった。
「何を言うかと思えば…」
「ははっ、そうですよね」
「~~~ッチ…」
だが意外と女性からの不意な攻め言葉には弱いのか、はつみの前ではこのように拗ねたり一瞬の戸惑いを見せる事も多かった。身分の高い彼にこのような態度で挑んでくる者自体稀有だったというのもあるが。とはいえはつみ本人は、そんな高杉の事情など出会った頃から今になっても気付かないでいる。今も、別のおなごなら微細に汲み取り『高杉はん、わてを気遣って下さって…』と可愛らしくはんなりと身を委ねてくる様な所だが、はつみはケロッとした様子で話を切り替え、高杉に焦れったい舌打ちをさせ、それでも何を取り繕う事もなく再び遠く水平線を見やっているのだ。
「適材適所、かぁ。戦国時代から島原の乱以来徳川250年の歴史を経てずっとそれなりに平和で、戦の仕方やコツなんてきっと殆どの人が忘れたりしてるのに…高杉さんは本当にすごいなぁって思います。」
甘えるどころか、また、どこかから取り出した設計図でも眺めているの様な、俯瞰的とも他人事とも言える物言いで語っている。
「長州男児の肝っ玉ここにあり、ですよね!ふふっ」
なかなかストンと掌に落ちてきてくれない、風にあおられあちこちへと舞い踊る桜のはなびらの様で癪に触るのに、掴み取りたい、掌に添えてじっくり愛でたいという気を抱かせる。そして、彼女の発言は時に何よりも奇妙で、高杉の頭の思案筋を刺激するのだ。…特に今の一言で、これまで思案してきた『はつみという娘に関する仮説』が、より一層確信へと近付いていた。
「…かつて君は僕にこう言ったな。『その時高杉が長州にいなければ、乗れる波にも乗れなくなってしまう』『長州にとって大切な事を成し遂げ残していく人なのだ』ーと。」
急に神妙な声色になったのが少々気にかかったが、はつみは素直に頷いて見せた。勿論よく覚えている。文久元年の夏、政敵を斬って亡命すると言い出した暴れ牛たる高杉と口論になった時の話だ。
「ふふっ…亡命してやるーって我儘言ってた時の事ですよね?懐かしいですね」
「ああ、だが昔話を楽しみたい訳ではないぞ」
高杉は手すりから背を起こすと更に一歩二歩とはつみの傍へ歩みより、 真っ直ぐに視線を投げ掛ける。
「あの時君には何が見えていた?
…雪降りしきる中挙兵する僕の姿が、今この丙寅丸で指揮を執る僕の姿が、君には見えていたのか?」
「!…それは…それこそ適材適所の話で…」
「先ほど『長州男子の肝っ玉』云々と言っていたな。どこでそれを聞いた?」
「っ…」
その言葉は、およそ一年半前の雪が降りしきる中、長州の政権を奪還する為に功山寺挙兵した高杉が五卿らに向かって述べた言葉であった。頼りだった奇兵隊諸隊は日和を決め込み、高杉の味方といえば捨て身で駆けつけてくれた伊藤俊輔率いる力士隊半数と、木島又兵衛が残した遊撃隊のみと決して多勢ではなかった。件の言葉をはつみに直接話伝えたとすれば内蔵太か伊藤くらいのものか…。その他巡り巡った噂で耳に入ったのだとしてもおかしくはないと言えばおかしくはないのだが、どうも高杉にはこれが引っ掛かったのだ。そして案の定睨んだ通り、とでもいうべきか。はつみが高杉の言葉を知った経緯には安易に口にできない事情があるのかの様に分かりやすく戸惑い、閉口する。
「これは適材適所の話ではないぞ。暴れ牛の事も、池田屋の事も、長州が辿る命運も、…過去の事もはるか未来の事も、君は『すべて知っていた』。僕はそう考えている。」
「……」
真っ直ぐに詰め寄ってくる高杉に、神妙な視線で応えるはつみ。こんな風に、自分の真髄について迫ってきた人はいなかった。正直、土佐を脱藩した今なら『記憶をなくした』などと妙な嘘をつかなくてもいいのかも知れないとも思う。…そう思うのなら、この身の正体をあっけらかんとその秘密を打ち明けても良いのではとも思うのだが、時を越えて今ここにいるという自分の存在意義に激しく自信を喪失していた。
…武市に続き内蔵太を失った今だからこそ尚更、自分がこの時代にやってきた意味は一体何だったのかと。むしろ、この時代に降り立った当初よりもずっと受け入れ難い心境の真っ只中にある。
…そんな心境を抱きながら真実を話した所で、高杉が納得いく話をしてやれないのでは、互いに徒労でしかないのではないかと…自分でも驚くほど投げ槍で後ろ向きな感情が沸いてしまう。
「高杉さん!三田尻に入ります!」
緊張感が高まるところに、三田尻港着の報告が入る。興を削がれた様子の高杉であったがすぐに気を切り替えた様で、この後船の整備や薪水調達などに入る船員たちには、明日の早朝、大島遠崎沖で奇兵隊ら長州軍と合流する旨を伝えていた。
やがて船が三田尻港に入り接岸されると、はつみの手を取って真っ先に小舟に乗り込み、三田尻へと上陸した。今日はもうじき日没であり、潮も引くので最後の薪水調整なども含めここに碇泊するつもりの様だ。
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◆三千世界の鴉を殺し…前編
慶応2年6月。
第二次長州討伐・四境戦争を迎える長州からの要請を受け、龍馬以下亀山社中一行はユニオン号こと乙丑丸を譲渡する為に下関へと入港した。
ほんのひと月前、ワイルウェフ号の沈没により池内蔵太や黒木小太郎らといった多くの仲間を亡くした亀山社中一味であったが、その死を嘆き悲しみ休む時間はなかった。時世の荒波は尽きる事無く押し寄せ、今また、幕府軍による長州征討という生きるか死ぬかの大波に向かって船を立てようとしている。事ついに今日の四境戦争へと至り、龍馬ら一行も『軍艦を用いた次世代海戦』へ初陣を飾る気合は十分であった。
『軍艦があっても乗り手がいない』
この懸念はいまやどこの藩にあっても付いて回る問題であり、独占的利権として海軍伝習所や蕃書調所、幕府海軍などを設けている幕府でさえ潤沢な人材を蓄えている訳ではなかった。その中にあって、既に数年前から軍艦操練の技術と知識を学び続けて来た上に一つの組織として統率力・結束力もある亀山社中の人材は重宝されているという訳だ。
「Thank you for comi~~~~ng !お~い!!!」
港に駆け付けた伊藤俊輔の出迎えを受け、一番に上陸した龍馬も笑顔で彼に近寄っていく。西洋風に固い握手を交わした後、早々に高杉(谷)の元へと案内された。速足で歩きながら適度な会話を続ける。
「海軍総督、それから丙寅丸艦長にも就任され、もう間もなく出陣されるところじゃった。」
「ほうじゃったか、それは間におうてよかったぜよ!や~はつみさんが急げ急げちゅうてのう」
「はつみ、君もよくまたこんな戦場まで来たねぇ」
伊藤独自の気さくさに見せかけて放たれたその言葉には、ワイルウェフ号事件からひと月も経たぬ今、気持ちの方を案ずる色が深く含まれていた。龍馬らもそれを耳にしつつ、見守る。はつみは返答をするが、やはりその笑顔はかつての彩を失ったままだ。
「うん、無理言って乗せてもらったんだ」
「大砲飛び交うかも知れない戦場へすすんで来る女子なんて、君ぐらいかもね」
「ははっ。でも、前回の時は俊輔君が手紙で呼び出したんだからね?」
「あっはは!そうだったそうだった、sorry!」
気さくな伊藤にはつみも場に応じた表情で返す。彼女が『御返し』とばかりに言ったのは、今からおよそ2年程前の元治元年夏、四カ国艦隊による長州報復戦争の講和会議前後に至った時の話であろう。
―当時の詳細を今ここで回想するのは止めたが、あの時は内蔵太、そして柊などもこの件に絡んでいた。その二人はもういない訳だが、はつみは情緒を乱すことなく伊藤の語り掛けに付き合えた様だった。
「頑張ろうね!」
一見差支えのない知己同士による会話に思われるが、会話が終わったあと伊藤は意味深に龍馬へ視線を送る。龍馬もその視線の意味を察するかの様に頷き、少し苦笑がちに微笑んで見せた。
彼女と初めて出会った文久元年夏、そして元治元年四カ国砲撃講和直後の再会時に比べてその輝きが段違いに失われている事…。今、龍馬らが視線を合わせた理由はこれである。伊藤のみならず誰もが気付き、そして懸念している事であった。
高杉の元へと一行を案内しながら、伊藤は思いを巡らせる。
彼女の輝きを例えるなら、高杉などは不意に『今生かぐや姫』などと漏らした事があった。
出会った当時のはつみは春桜の陽気を纏う男装の麗人という一点だけを取っても、どこか浮世めいた異常な異質さを放っていたが、決して大げさな比喩ではなく、実際伊藤の目から見ても彼女が異質であるというのは明確だったのだ。そしてその異質さが最も輝きを放ち周囲を惹き付ける瞬間があった。女性である彼女が時世を語るというのでお手並み拝見程度に耳を傾けたが、蓋を開けてみればとんでもない思想を抱いた人物だったのである。
『世界が日本に航海と貿易の利を求め目を付けた今、日本は世界の一つである事を自ら認め世界を受け入れなければならない。しかしそれは決して異国に屈するという事ではなく、尊き血筋である天皇を頂きその元に花開いた文化や道徳精神、日本国が日本国たらしめんが為の伝統と精神全を以て、世界の一因となるという事。全ての子供や若者たちに対する教育を見直し、産業革命および殖産興業を促進して貿易を拡充させ、富国強兵し、世界の列強国、その他国々と対等に外交を行う強い国家に成らなければならない。現状世界列強との格差著しい日本が開国を拒否する事はほぼ不可能であり、対等かつ友好的な外交ができなければ世界から一方的に搾取され、孤立するだけの立場となるだろう。』
『攘夷とは夷狄を打ち払う事を指すが、真の攘夷とは日本を世界に認めさせ、世界の中で日本国を保つという事。不平等条約や治外法権を認めず、海外列強と同等の立場で渡り合っていくという事。その為に彼らと平等に外交する為の適切な能力と判断力を持つ政府であれば、その形は幕府である事に拘らない。朝廷だけでは政治がままならないと言うのであれば朝廷を擁した新勢力の存在でもいい。日本は世界からは逃れられない。世界と交流を続けた列強の発展は日本をはるかに上回っているという事を、まず知らなければならない。けれど、日本は『まだ世界を知らない』だけであり、日本国民の知能や民族性が世界の人々に劣るという訳では決してない。』
―…文久元年の当時、彼女はこの様な事を平然と言い切った。日本に住まう女性がここまで思想や時事を語る時点でもはや異質であったが、それに加えてまるで事象の地図でも見下ろすかの様に独特な語り口、だけども聞き手の心を掴む様な心地よい声で、彼女の言わんとする事が耳から脳へと響き渡ってゆく。女性である事は普段隠している様ではあったが、性別に捕らわれぬ抗いがたい魅力、そして才を惜しげもなく発揮する瞬間であった。
そしてその思想は、当時で言えば横井小楠や亡き吉田松陰らがそれに似た思想を唱えていた、時世がまだ追い付く事のなかった最先端も最先端のものだった。当時は異国と戦う為に異国を知ろうとしたというだけで『開国論者』とのそしりを受け、迫害されるかの如き仕打ちを受ける事もしばしばであった中、この思想を真の意味で理解し継承せんと長州藩内で一人奮闘していた上海帰りの高杉が、彼女に強く強く同意し、そして惹き付けられるのも『一目惚れ』程に早いものであった。当時の桂や周布、久坂なども、松陰が残した思想を踏まえ世界の事情を把握しようとしつつも、幕府があまりにも朝廷をないがしろにする対応を続ける為に開国論には閉口しがちであった。故に『対幕府』を念頭に置いた思想・政策に走り、『攘夷』こそが帝の真の本意であると掲げて開国論著しい幕府要人や異人に敵意を持つ言動が繰り返す。それが、文久元年、2年の当時に土佐や長州、水戸らが中心となって巻き起こした『尊王攘夷』という大きな渦なのである。
開国(富国強兵)論をかざすはつみや高杉が明確に『天誅』の対象とならなかったのは、『尊き血筋である天皇を頂き』『列強に屈しない日本を作る』とする点を主張し、幕府に傾倒する姿勢が見当たらなかった為であろう。はつみに至っては『諸外国と対等に外交を行う能力があれば幕府に固執する必要はない』『幕府以外の政権でも構わない』とする発言を平然としており、当時としては過激すぎるその発想・発言に誰もが度肝を抜いたものである。この時伊藤は『はつみ君は昨今尤も過激な尊王論者であり開国論者だね』と評し、桂や高杉辺りが深く頷いた所までを強烈なセンセーショナルを以て今でもはっきりと覚えている。
後の英国極秘留学の際でも、彼女の言葉を思い出す程であった。
咲き誇る春桜の如き華やかさ、その輝ける彼女を知っていれば知っている程、今の彼女を見て心配しない者はいないだろう。
彼女がここ―戦場―へ来たのは死に場所を探しているからなのかもしれない…
誰も口にはしなかったが、そんな事を懸念してしまう程に。
そうこうする内に、一行は高杉がいる白石邸へと辿り着いた。
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